井上家(いのうえけ)[Inoueke]
所在地 北区
選定番号 第12-002号
推薦理由(抜粋)
等持院の地に建つ民家建築。主屋は近世に遡る建物で、元は茅葺であったが、大正14年に等持院撮影所からの出火により屋根が焼損した際にトタン葺としたと伝わる。敷地内には門、土蔵、土塀が残り、旧家の屋敷構えが残されている。
認定番号 第244号
認定理由
井上家は北区等持院の地に位置する。北側には足利尊氏が夢窓疎石を招じて建てた禅寺・等持院が所在する。江戸時代後期には薩摩藩、因幡藩の藩屋敷があったことが確認される。同地域は明治期に等持院村となり、後に周辺村と合併して衣笠村となった。京都の近郊農村であった衣笠村は次第に人口が増加し、大正7年(1918)に京都市に編入された。大正10年(1921)には牧野省三により牧野教育映画製作所の等持院撮影所(後にマキノ映画製作所)が開設され、映画関係者などで賑わった。大正14年(1925)に映画製作所が移転すると、跡地が分譲されるなど宅地化が進んだ。
井上家は近世から同地に屋敷を構え、明治期には等持院村や衣笠村の村長を務めた家柄である。東側の通りに向けてに表門を向け、主屋、土蔵を配する。井上家には享保元年(1716)の普請願書が残り、南北に棟方向を向ける梁間3間半、桁行5間の家屋が絵図に描かれている。これは現存する主屋の上屋部分の規模や下屋の位置と一致する。建物には近世に遡ると考えられる古い部材が確認され、改変を受けながらも18世紀前半の遺構が残されている可能性が充分考えられる。主屋は入母屋造屋根の鉄板葺である。この鉄板は大正14年に等持院撮影所からの出火により茅葺屋根が焼損した際に、葺かれたものと伝わっている。玄関は東側に平入に設けられ、深い下屋庇が設けられている。内部は北側に土間をとり、四間取りの居室を配する平面である。玄関土間には奥の台所とを仕切る格子戸が設けられている。奥の上手が床と仏間を備えた8畳の座敷となり、南側の庭に面する。庭は燈籠を置き飛石を配する他、西寄り部分には鳥居を備えた稲荷社の祠が祀られている。敷地の北西に建つ土蔵は、建築申請書類から大正15年(1926)に建築されたことが分かる。離れは明治中期以降の建築で、養蚕に用いられていたと伝わるが、昭和50年代に下宿として用いられた際に改変されている。
井上家は、等持院地区に残る近世期に遡る民家である。近世期の屋敷構えを伝え、周辺の歴史的景観にも大きく寄与する。映画撮影所との関係など、京都の近代史の一面をも伝える重要な建物として評価される。