牧野家(まきのけ)
[Makinoke]
所在地 北区
選定番号 第9-006号
推薦理由(抜粋)
大正時代に建てられた旧衣笠園の住宅で,前庭と中庭がある。牧野家は,昭和20年(1945)頃,甲子園の自宅が焼失したため,この地に戻った。
認定番号 第228号
認定理由
牧野家は、北野白梅町に造営された住宅地「衣笠園」に所在する。
衣笠園は明治45年(1912)に、実業家・藤村岩次郎によって衣笠村内に開発された住宅地である。藤村は自らの邸宅(現衣笠会館)に隣接する現在の北野白梅町周辺の土地約4,200坪を「衣笠園」として
宅地開発した。30~60坪程度の建坪の貸家による賃貸経営であった。現在の京都市域では、最も早い時期に形成された郊外住宅地でもある。園内には大正4年(1915)から数か月間、作家の志賀直哉が居住しており、小説「暗夜行路」には衣笠園の名があらわれる。また、日本画家・土田麦僊も画室を構えていた時期がある。現在ではこれらの建物は失われ、衣笠園開発時に遡るものとしては、牧野家がほぼ唯一の現存建物と考えられる。衣笠村は京都市近郊の農村部であったが、明治末から大正期には人口が急増し、大正7年(1918)には京都市上京区に編入された。これに先駆けて、大正初めには日本画家・木島櫻谷らが画室・邸宅を構えたことを契機に、画家の集まる「絵描き村」が形成された地域としても知られる。
建物は衣笠園の貸家管理を行った戸祭千之助の居宅として、明治45年に建築されたものであることが確認される。戦後、牧野氏が同建物を入手した。西側の通りに面して門を開き、マツやサツキの刈り込みを植栽した前庭が配されている。その奥に木造平屋建、桟瓦葺の建物が建つ。玄関を入ると奥に向かって中廊下が延び、南側に和室2室と台所を配する。台所脇に設けられた浴室脱衣場には下地窓の円窓が開けられ、西側外観のアクセントともなっている。廊下北側には8畳座敷と4畳半間を配する。座敷奥(東側)には主庭をつくり、手水鉢や飛石を配している。
牧野家は、京都市近郊の住宅地開発の嚆矢とも言える衣笠園において、開園当初に遡るものとしては現存する唯一の建物と考えられる。近代の郊外住宅地の形成史を伝える建物として重要である。