神光院(じんこういん)[Jinkoin]
所在地 北区
選定番号 第4-021号
推薦理由(抜粋)
京都三大弘法のひとつである神光院は,明治の神仏分離の際に一旦廃寺となり,その後文政12年(1829)に再興されたと伝わる。境内には,本堂,中興堂などのほか,大田垣蓮月尼が晩年過ごしたとされる庵が残されている。
認定番号 第155号
認定理由
神光院は,真言宗の単立寺院で,空海像を本尊とし,京都では東寺,仁和寺とともに「三弘法」と呼ばれる。寺伝では,建保5年(1217)に賀茂別雷神社の神職・松下能久(まつしたよしひさ)が神託を受け,大和国から僧・慶円を招いて寺院を建立したことに始まるとされる。江戸後期の火災で伽藍が焼失したが,文政期に復興がなされたと伝わる。慶應2年(1866)から明治8年(1875)には歌人・大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)が寓居し,当地で没したことでも知られる。
境内には,本堂,中興堂,客殿,庫裏,山門などが残る。本堂は擬宝珠(ぎぼし)の銘から文政12年(1829)の建築と判明する。客殿は,3室が3列に並ぶ9室の建物で,棟札から文政9年(1826)の建築と確認される。中興堂は棟札から大正6年(1917)の建築と判明する。宝形造の屋根に入母屋破風と唐破風を設けた特徴的な外観を有し,軒は円型断面の垂木を用いて二軒とするなど,創作的な意匠を用いる。大田垣蓮月が居住した蓮月庵は,蓮月の寄寓に際して茶所に増築した建物で,茶室風の部屋も残る。
神光院は,江戸後期以降に整備された境内空間を伝える。京都三弘法として市民から親しまれ,大田垣蓮月の終焉の寓居としても重要である。
参考 景観重要建造物,
国登録有形文化財(建造物)