丈松庵(じょうしょうあん)
[Joushouan]
所在地 左京区
選定番号 第8-043号
推薦理由(抜粋)
下鴨文化村と呼ばれた地域に建つ。同地の素封家が大正後期に建てた建物で、日本画家・今尾景祥が昭和27年に居宅として移り住んだ。かつては比叡山を臨めた庭に面した主屋の2階に画室を設けていた。
認定番号 第245号
認定理由
丈松庵の所在する下鴨地区は下鴨村に属し、明治には京都府立大学の前身である京都簡易農学校の創立(明治28年)など、京都近郊の地として次第に開発が進み、大正7年(1918)に京都市に編入された。大正末期から下鴨地域で土地区画整理事業に着手するが、事業以前から下鴨には学者と画家が多く移り住み、「下鴨文化村」と呼ばれるようになる。大正7年(1918)には洋画家・鹿子木孟郎、同11年には日本画家・福田平八郎が新居を構えたことで、以後画家を始めとした芸術家が住み始める。昭和2年(1927)には鹿子木が下鴨在住の画家を糾合して「下鴨会」を結成している。
この下鴨文化村の一角に建つ丈松庵(旧今尾景祥邸)」は、大正11年(1922)頃に同地の素封家が建てた建物で、日本画家・今尾景祥(1902~1993)が昭和27年(1952)に居宅として移り住んだ。景祥は日本画家・今尾景年に弟子入りして絵を学んだ。景年は大正3年(1914)に中京区西六角町に居宅兼画室を建築し、弟子も住まわせていたが、景祥も住み込みながら京都市美術工芸学校にも通ったという。後に景年より「景祥」の雅号を授かり、その死去に際して養嗣子となった。戦後、中京の景年邸を手放すことになり、入手したのが丈松庵である。主屋は木造2階建、桟瓦葺の建物で、登記簿資料によれば、大正11年に建てられたものと考えられる。主屋敷地の西寄りに建ち、東側に広く庭が配されている。庭は中ほどに小さな池や灯籠を配する他、当初はユキヤナギが多く生え、景祥は「雪柳庵」と称した。没後、景祥が松を描くことを追求して多くの作品を残したことから、子息の日本画家・景之氏が「丈松庵」と名付けた。東側に配された庭からは、かつては比叡山が臨めたという。西向きの玄関を入ると南北に廊下が延び、その東側に6畳の居間、8畳の応接間など、西側に台所や茶室が配される。応接間は絞丸太を用いた床と一枚板の床脇を備える。西側面の天井廻り縁の下に桟が打たれ、ここに絵を掛けて鑑賞したという。2階は階段室の他、東・南側に縁廊下がまわり、北側に4畳半の仏間、南側に6畳の画室を配する。画室には南と東を開口する。景祥は作品を置くスペースのため縁廊下の幅を広げる改修を行った。
丈松庵は日本画家・今尾景祥の画室を備えた居宅である。製作の場も良く残り、かつて下鴨文化村と呼ばれた歴史を伝える重要な建物である。