認定番号 第205号
認定理由
西洋画の普及のため、明治34年(1901)、田村宗立らによって関西美術会が設立され、翌年には京都高等工芸学校の教授となった浅井忠が同会に参加する。浅井は、同36年に聖護院の自邸内に聖護院洋画研究所を開設し洋画の指導に当ったが、希望者が多かったことから、同38年に関西美術院の設立が決定された。住友家をはじめとする有志者からの寄付により、明治39年(1906)3月に現在地に開設された。関西美術院からは梅原龍三郎、安井曾太郎をはじめ著名な芸術家が輩出し、現在も洋画を学ぶための教育施設として存続している。
設計は、京都高等工芸学校で浅井の同僚であった武田五一による。木造平屋建、鉄板葺で片流れの屋根とする。東西に4室が並び、廊下を挟んで南側に応接室を配する。西側から「講堂」(現石膏写生教室)、「人体写生教室」、「石膏写生教室」として使用されており、中央の2室が明治39年の建築、西側室が明治40年の増築である。東側室は、明治39年建築の倉庫を昭和39年(1964)に建て替えたものである。写生に用いる部屋は、いずれも自然光の変化を小さくするため、北側に大きな窓を設けている。殊に人体写生室は天井面までを窓として、北側採光を図っている。教室部分は、片流れのトラス構造を用いた小屋組を天井にあらわすが、こうした構造は、北側に大きな開口を設けるために採用されたものと考えられる。一部に改変はあるものの、明治期のアトリエ空間が現在まで良く伝えられている。
関西美術院は、明治後期に創設された洋画家を学ぶ画塾の施設で、大きな北側窓を設けるアトリエ空間は特徴的である。明治期の絵画塾の建築遺構としては全国的にも稀有なもので、極めて高く評価される。
参考 国登録有形文化財(建造物)
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