渡邉家(わたなべけ)[Watanabeke]
所在地 左京区
選定番号 第10-018号
推薦理由(抜粋)
江戸時代に遡るとされる主屋,北の蔵,乾蔵が残る。明和4年(1767)に起きた「源太騒動」は主屋の玄関前が舞台となったと伝わる。
認定番号 第221号
認定理由
渡邉家は足利義昭に仕えて、一乗寺に城館を構えた郷士の系譜を有すると伝わる。現在の屋敷構えは道路面から2m程度の高さを持つ台状の敷地で、西、南、東側の三方には濠跡が残されており、方形の城館遺構と見られる。こうした形状からは16世紀前期に遡る可能性もあり、伝承に残る義昭の時代には既に存在していたものと考えられる。近世には分家を経て、一乗寺村の庄屋をつとめたとされる。現在、主屋、長屋門、土蔵2棟と土塀によって屋敷構えが構成されている。
主屋は、梁行4間半、桁行11間の規模を有する、入母屋造の平屋建、瓦葺の建物である。同家に残る寛政元年(1789)の渡邉家当主の口上書によれば、宝永年間(1704~1711)に村内に火災があり、屋敷が類焼したとされる。その後の再建時期は不明だが、文政5年(1822)の付属屋の普請願書には在来の建物として主屋が記載されている。部材の状況からは文政期に既に建築されていたと判断することに齟齬は感じられない。西側に大きな土間をとり、2列に6室を配する平面が基になっており、庇下部分を利用して茶室を設けるなどの改変がなされている。昭和63年(1988)には主屋の土間部分に床を張る改修がなされたが、平面の構成は踏襲されている。式台を上がり上手に進むと、表側に10畳、奥に8畳の座敷空間が配されている。主屋の南側には庭園が広がる。座敷部分南面のニワサキが土塀で区画され、伏見城から移したと伝わる石燈籠などが配されている。土塀の西側には巨大なマツが植えられていたが、平成2年(1990)に造園家・中根金作の作庭により、サツキの刈込みを主とする庭に改修された。主屋北西に建つイヌイグラは普請願書から天保2年(1831)の建築と分かる他、背面のキタノクラや長屋門も近世に遡る遺構と考えられる。
渡邉家は中世城館の様子を伝える屋敷構えが残り、京都の中世史の場を伝える貴重な場所である。近世に遡る主屋や附属屋も現存しており、近郊に残る近世民家の事例としても重要である。