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落柿舎(らくししゃ)[Rakushisya]

所在地
 右京区
 
選定番号
 第12−016号
  


推薦理由(抜粋)
 落柿舎は、江戸時代に松尾芭蕉の門人の向井去来の別宅を再興したもので、芭蕉が嵯峨日記を残したという、文学史上で貴重な史跡と言われている。敷地内の建物と庭の草木の様子は、なんとも言えず懐かしく、風情がある。



認定番号
 第210号

認定理由
 落柿舎は、元禄期の俳諧師で芭蕉十哲と称される向井去来が営んだ庵に由来する。貞享4年(1687)以前には存在していたとされ、師の松尾芭蕉は元禄2年(1689)に訪れるなど、併せて三度来庵している。去来の没後、落柿舎は荒れるにまかせ取り壊されたという。現在の落柿舎は、去来の没後66年目に当たる明和7年(1770)に、親戚の井上重厚が再興したものである。既に落柿舎の跡地が不明だったため、天龍寺の子院・弘源寺の境内中に柿の老木が美しい場所を選んだという。この際、公家・菊亭(今出川)家から御腰掛一宇を拝領し、移築したと伝わる。明治維新を迎え、弘源寺は衰亡して捨庵も売りに出されたが、嵯峨の旧家・小松喜平治がこれを購入し、再び俳句道場として広く提供されることとなった。昭和12年(1937)には俳人である永井瓢斎、工藤芝蘭子らがこれを購入し保存した。
 建物は寄棟造の茅葺屋根で、北側三畳間の部分には桟瓦葺の庇をかけている。外壁を錆壁とし、腰部分には割竹や杉皮を張る外観である。入口には芭蕉の旅姿に因んで、菅笠と蓑を掛ける。下手の土間には、手前に井戸と水屋、奥にクドが設けられている。入口の土間には炉が切られ、二畳大の室を3室設ける。さらに上手に四畳半間、奥側に三畳間を配する。四畳半間は縁側を有し、床と床脇を備える。床柱にはスギの磨き丸太を用い、床脇には天袋と地袋を設けて円の下地窓を設ける。入口土間に瓢箪形の下地窓を施すなど、所々に数寄屋の意匠を用いている。
 落柿舎は、18世紀後半に向井去来を偲んで再興された建物で、江戸期の俳諧文化を考える上で重要な場である。茅葺屋根の佇まいは嵯峨の田園風景を形成する構成要素としても評価される。



 国登録有形文化財(建造物)


ホームページリンク:
 落柿舎のホームページはこちら(外部リンク)



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